下図はこちらで確認を👇
千利休(1522-91)がつくった茶室「待庵」(たいあん)です。
千利休は「侘び茶」の完成者です。
織田信長や豊臣秀吉に仕えました。
特に秀吉は、権力者としての威光を保つため、最大限に「茶の湯」を利用しました。黄金の茶室で天皇家をもてなし、全国規模でのイベントなども行っています。
しかし利休が求めたのは、秀吉の黄金趣味とは対極をなす「侘び茶」の世界。簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじました。
この「待庵」は、わずか2畳という小ささです。
利休は使用する道具においても、独自の美意識を反映させ、それまでの高級で貴重な唐物にかわり、和物(日本製)の道具を持ち込みました。
3級 過去問/Q.205
長次郎(ちょうじろう)は、桃山時代を代表する京都の陶工です。
利休の指導のもと、楽茶碗(らくちゃわん)をつくります。
轆轤(ろくろ)を使わず、手びねりによって作られ、黒と赤という簡素ながら深い色合いで、侘び茶の美意識を体現したものです。
以後、楽茶碗は「茶の湯」の世界において、特別な地位を占めることになります。
利休が和物を取り込んだことによって、「茶の湯」に参加する人々の層が広がりました。
そして茶の湯専用の陶器も作られるようになっていきました。
3級 過去問/Q.206
左隻
《山水図》右隻
1593年 紙本金地著色 智積院(京都)
雲谷等顔(うんこくとうがん)は、狩野永徳や長谷川等伯、海北友松(かいほうゆうしょう)らと共に、桃山時代を代表する画人です。
肥前(現 佐賀県)の城主の子だった等顔は、中国地方の戦国大名・毛利輝元から、雪舟のアトリエ「雲谷庵」を与えられ、雪舟画系の再興を命じられました。
等顔は大徳寺内の黄梅院(おうばいいん)障壁画(重要文化財)など、京都でも活躍しました。
京都国立博物館蔵 重要文化財
九州国立博物館蔵
雲谷家は江戸時代を通じ、雪舟流の絵画をもって、代々毛利家に仕えています。
3級 過去問/Q.207
京都の高台寺です。
秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ・ねね/出家後は高台院湖月心公)が、秀吉の冥福を祈るために建立した寺院です。秀吉とねねの寺ですね。
御霊屋(みたまや)の蒔絵(まきえ)は、伝統的な蒔絵とは異なるデザインです。
こちらで確認を👇
蒔絵は漆工芸の技法のひとつで、漆器の表面に、漆で絵や文様を描いて、乾かないうちに金属粉を蒔いて定着させる技法です。
この蒔絵は、黒漆を背景に、金の平蒔絵(文様部分の漆を盛り上げず、平滑に仕上げたもの)を主体に、シンプルに草花などの文様を描いています。
同じこの高台寺には、重要文化財の《竹秋草蒔絵文庫》もあります。
👇高台寺のサイトでいろいろみれます!
少し前の問題に、幸阿弥家(こうあみけ)がでてきましたね。(Q.199)
室町時代に足利将軍家の御用を務めた、蒔絵専門の幸阿弥家です。
5代・宗伯(そうはく)の代表作が《桜山鵲蒔絵硯箱》(さくらさんじゃくまきえすずりばこ)でした。
今日の御霊屋の蒔絵は、秀吉に仕えた7代・長晏(ちょうあん)の作品です。シンプルで素敵なデザインです。
おおらかで直接的な表現による蒔絵は「高台寺蒔絵」と称されます。
3級 過去問/Q.208
狩野内膳
16世紀末-17世紀初頭 紙本金地著色
六曲一双 各154.5×363.2㎝ 神戸市立博物館 重要文化財
16世紀、戦国から桃山時代には、鉄砲やキリスト教が伝えられました。当時日本人は、来舶した西洋人のことを「南蛮人」と呼んで、その異国文化を大変珍しがりました。
その南蛮渡来の風俗を描いた「南蛮屏風」は、桃山から江戸時代初めにかけて、盛んに制作されています。
この作品は、出航する南蛮船と、日本に着いて上陸する場面が、対になって描かれたものです。
上の絵は右隻です。左隻はこちらで確認を👇
描いたのは豊臣家の御用絵師、狩野内膳(かのうないぜん)です。
三代目狩野松栄に学んで、狩野姓を許された絵師です。
【参考図書】
知る、わかる、みえる 美術検定3級問題[基本編 basic] 美術検定実行委員会編 株式会社美術出版社 2021
改訂版 西洋・日本美術史の基本 美術検定1・2・3級公式テキスト 美術検定実行委員会編 株式会社美術出版社 2019
続 西洋・日本美術史の基本 美術検定実行委員会編 株式会社美術出版社 2018
増補新装 カラー版日本美術史 辻惟雄監修 株式会社美術出版社 2020
芸術教養シリーズ2 飾りと遊びの豊かなかたち 日本の芸術史 造形篇II 栗本徳子編 株式会社幻冬舎 2013