藤原隆章・隆昌《慕帰絵》(部分)
1351年 紙本著色 前10巻
各32×812~1482㎝ 西本願寺(京都)
本願寺教団の基礎を築いた覚如(かくにょ)です。浄土真宗を開いた親鸞の曾孫で、親鸞が亡くなってから8年後に生まれています。
この《慕帰絵》(ぼきえ)は、覚如の伝記を描いた絵巻で、10巻からなります。
描いたのは南北朝時代の画家、藤原隆章(第2・5・6・8を担当)と、藤原隆昌(第3・4・9・10を担当)。
1と7は後世に紛失し補作されています。
当時の建物や調度、風俗の様子がよく描かれています。
3級 過去問/Q.192
禅宗は日本では、
臨済宗(りんざいしゅう)と
曹洞宗(そうとうしゅう)と
黄檗宗(おうばくしゅう)の 総称のこと。
特に座禅を重んじて、達磨が宋祖です。
禅宗の寺院のことを「禅林」(ぜんりん)といいますが、室町時代はこの禅林のネットワークが作られ、国内外を問わず盛んな交流を見せました。
この安楽寺(上田市)の三重塔は、八角で中国風です。
下図は、山口県下関市の功山寺(こうざんじ)の仏殿です。現存する日本最古の禅宗建築です。
この建築様式は唐様ともいわれ、全体的に木割(きわり)が細く、軒の反りの大きさなど、装飾的な造作が特徴です。
東京の東村山市の正福寺地蔵堂も、禅宗様が継承されており、都をはるかに離れた地にも、その広がりを確認できます。
正福寺 地蔵堂(東村山市) 国宝
従来の寺院建築様式の和様、鎌倉時代初期の大仏様(だいぶつよう)、そしてこれらに対して禅宗様(ぜんしゅうよう)と呼ばれます。
この時代、国内外を問わず交流が盛んでした。多くの僧が中国に修業に行き、帰国後は中国式の規範のもと、後進を育てました。
《四睡図》(しすいず)
中国画に近い水墨です。
《夢窓疎石像》 14世紀頃
こちらは中国風というより日本化していますね。
「禅林」はこの時代、文化の拠点として機能していました。
3級 過去問/Q.193
金閣寺の正式名称は、鹿苑寺(ろくおんじ)です。
開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の、法号・鹿苑院殿(ろくおんいんどの)にちなむ寺名です。
金閣はこの寺の中心的な建物で、応仁の乱では唯一寺内で焼失を免れますが、
1950年の放火によって、焼失しています。
3級 過去問/Q.194
詩画軸(しがじく)は、縦長の掛軸の画中に、詩や賛(解釈や論評・共感など)が加えられたものです。
多くの場合、絵は画面下の方に寄せられて、文字は上の方に配されます。
もともと、元時代の文人たちの間で行われていたものですが、日本でも室町時代に、禅僧たちの間で流行しました。
詩画軸の主題は3つに大別されます。
◆「詩意図」(しいず)/ 中国の古典・故事の世界を描いたもの。
設問の《柴門新月図》(さいもんしんげつず)は、この詩意図で
現存する最も古い詩画軸です。
◆「書斎図」/ 禅僧の書斎を大自然の中に理想化したもの。
代表作《江天遠意図》は、根津美術館のサイトで👇
と、種類がありますが、見ただけでは区別できないですね。
3級 過去問/Q.195
芸阿弥《観瀑図》
1480 根津美術館 重要文化財
能阿弥(のうあみ)の子が、芸阿弥(げいあみ)で、その子が相阿弥(そうあみ)です。
この三代は同朋衆(どうぼうしゅう)として、足利将軍家に仕えました。
同朋衆とは、将軍の近くで雑務や芸能に携わるものたちのこと。
美術のコーディネーターを務め、三代それぞれが優れた絵師たちでした。
ちなみに他の答えは、
② 朝廷の専属絵師として、やまと絵を発展させた ➝ 絵所預となった土佐派
③ 僧でありながら、新仏像の造形を生み出した ➝ 明兆(東福寺で新しい仏画の造形を生み出す)
④ 画家として京都で学んだ画風を鎌倉で広めた ➝ 祥敬(鎌倉五山の建長寺の画家で、芸阿弥に学び関東の中央画壇の画風を広める)
【参考図書】
知る、わかる、みえる 美術検定3級問題[基本編 basic] 美術検定実行委員会編 株式会社美術出版社 2021
改訂版 西洋・日本美術史の基本 美術検定1・2・3級公式テキスト 美術検定実行委員会編 株式会社美術出版社 2019
続 西洋・日本美術史の基本 美術検定実行委員会編 株式会社美術出版社 2018
増補新装 カラー版日本美術史 辻惟雄監修 株式会社美術出版社 2020
芸術教養シリーズ2 飾りと遊びの豊かなかたち 日本の芸術史 造形篇II 栗本徳子編 株式会社幻冬舎 2013