3級 過去問/Q.247
《レ・ジュ・ド・ノエル》 1925年
佐伯祐三(さえき ゆうぞう/1898-1928)は、東京美術学校を卒業後フランスへ渡ります。ヴラマンクやユトリロの影響を受けて、パリの街並みを、独自のスタイルで描いた洋画家です。
《郵便配達夫》
油彩・キャンヴァス
1928年 80.8×65㎝
「1930年協会」はヨーロッパ留学の経験を持つ、佐伯祐三、木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、前田寛治ら5人が、1926年に結成した団体です。(1930年の結成ではないんですね。)
彼らは、エコール・ド・パリと呼ばれる1920年代のパリに留学した画家たちで、フォーヴィスムをもとにしながら、独自の自由な画風を追求します。またたくまに多くの画家が集いました。
フォーヴィスムについては、Q.112 を。
気品ある美しい女性を数多く描いています。
まとめて観れるサイトがないので、名前で画像検索を。
「まえだ」ではなく「まえた」です。
《二人の労働者》 1923年 大原美術館
「1930年協会」の由来ですが、ミレーやコロ―が活躍したバルビゾン派(1830~1870年頃)は「1830年派」とも呼ばれており、これに倣ったもの。
1930年の新運動の完成を目指していたようですが、佐伯祐三のフランスでの病死、木下孝則の渡欧、里見勝蔵の脱退、前田寛治も病死… などで協会は急速に弱体化します。
そして奇しくも1930年に解散しています。
主要な画家の多くは小島善太郎とともに、同年新たに結成した「独立美術協会」で活躍していくことになります。
👇参考 八王子市夢美術館
3級 過去問/Q.248
《考える人》
近代彫刻の開拓者です。
人間の豊かな感情を、自由に構成して表現した作品は、若い芸術家に衝撃を与えました。
絵画を学んでいた荻原守衛(おぎわらもりえ/1879-1910)は、留学中にロダンの作品に出合い、感銘を受けて彫刻に転じます。
ロダン本人にも幾度か合い、直接の教えを受ける幸運に恵まれました。
荻原守衛《女》
《坑夫》
1910(明治43)年に文芸雑誌『白樺』が、ロダンの特集を組みます。大正に入ってからは、 高村光太郎が「ロダンの言葉」の翻訳を出しています。ロダンの影響はとても大きなものでした。
白樺教育館さんのサイトで、ロダンに贈った浮世絵のお礼として、ロダンの彫刻3点が初めて日本にもたらされた時の、白樺派の大興奮の様子を確認できます。
武者小路実篤や柳宗悦(やなぎむねよし/思想家)の綴った言葉に引き込まれます。
👇「ロダンと白樺派」 おもしろいですよ!
👇ロダンの《地獄の門》についてはこちらもどうぞ。
3級 過去問/Q.249
恩地孝四郎(おんち こうしろう/1891-1955)は、日本の抽象美術の先駆者で、「創作版画」の先駆者の1人です。
東京美術学校で洋画や彫刻を学んだ後、竹久夢二の影響を受け、1914(大正3)年に仲間たちと、詩と版画の雑誌 「月映」(つくはえ)を創刊。目新しい抽象の版画を刷り込みました。
👇作風はこちらで確認を。
広重や北斎の「浮世絵版画」は、版元のもと、絵師と彫師と摺師による共同作業でしたね。(Q.224参照 )
しかし「創作版画」は、自分で描き、自分で彫り、自分で摺るを原則として、自己表現したものです。複製が目的でもありません。
孝四郎はさまざまな試みで、作品を生み出していきました。
1918(大正7)年には、日本創作版画協会が設立され、「創作版画」は少しずつ、美術として受け入れられるようになっていきました。
孝四郎は、北原白秋や萩原朔太郎、室生屑星らの著書の装丁や挿絵でも活躍しています。
晩年は純粋な抽象表現に傾倒しています。
【参考図書】
知る、わかる、みえる 美術検定3級問題[基本編 basic] 美術検定実行委員会編 株式会社美術出版社 2021
改訂版 西洋・日本美術史の基本 美術検定1・2・3級公式テキスト 美術検定実行委員会編 株式会社美術出版社 2019
続 西洋・日本美術史の基本 美術検定実行委員会編 株式会社美術出版社 2018
増補新装 カラー版日本美術史 辻惟雄監修 株式会社美術出版社 2020
この絵、誰の絵? 100の名作で西洋・日本美術入門 佐藤晃子著 株式会社美術出版社 2019