唐(618~907)の滅亡後、五代十国(907~960)の分裂・動乱の時代が半世紀ほど続きます。華北では5つの王朝が興亡を繰り返し、江南や四川では、10の国々が勢力を張り合っていました。
その混乱を収めて、中国を統一したのが北宋(960~1127)で、この時代に山水画は大きく発展します。日本が平安時代(794~1185)の頃です。
北宋では、士大夫(したいふ)と呼ばれる知識官僚が文化の担い手となり、学問や芸術がおおいに栄えます。
山水画は自然主義的傾向を強めて、水墨による写実的な山水表現が大きく発展。
北宋前期は、華北地方の巨大な山を大観的にとらえた様式が広まり、李成(りせい)と、范寛(はんかん)が活躍します。
李成の「平遠山水」と、范寛の「高遠山水」といわれる二大様式が流行し、李成派、范寛派を形成して、華北の山水画壇を東西に二分するほどに。
そして北宋後期に活躍したのが郭煕(かくき/1023~1085)。北宋の山水画の頂点を極めます。
李成(りせい/919~967頃)
李成は、唐の宗室(そうしつ/皇族に対する呼び方)の末裔で、山東省を拠点として活躍した画家です。
左手前には「寒林」と呼ばれる松樹から、右側の「平遠」とよばれる広い平原の画面奥へと、視線が引き込まれる構図です。
近くと遠くの極端な大小遠近法で、より効果的に遠くを感じさせ、華北地方の荒涼な平原を「平遠山水」の形式で描いています。
范寛(はんかん/960頃~1030頃)
范寛は、はじめ李成などの山水画を学びますが、やがて自然そのものを師として山中に入り、自然観察に基づいて山水画を描きます。
《谿山行旅図》
(けいざんこうりょず)
絹本墨画淡彩
206.3×103.3㎝
北宋
国立故宮博物館(台北)
范寛は、山頂を下から仰ぎみる形式の「高遠山水」。
李成の「平遠山水」とは対照的です。
前景・中景・後景と3分割されていますが、後景部分に全体の3分の2を使い、迫ってくるような迫力ある表現です。
山石の量感や質感も細かな筆墨のタッチで描かれ、その雄大な山岳と対照的に、右下に駄馬の隊商がとても小さく描かれています。
この作品は長年 范寛作と伝えられていた名品でしたが、900年を経た近年になってようやく、その駄馬の隊商の近くに、小さな落款があることが発見されています。
なんとなく見えるでしょうか?
郭煕(かくき/1023~1085)
郭煕は、五代以来の山水画様式を集大成して、理想的に再構成しました。
皇帝の厚い庇護のもとで、宮廷の画院画家として最高の地位を得ています。
郭煕
《早春図》
1072年
絹本淡彩
158.3x108.1㎝
国立故宮博物館(台北)
暗い冬から目覚めたばかりの自然の景観で、霞む山に、 雪解け水が流れる川、大地が動き出した早春の表情が、墨の濃淡によって 画面いっぱいに描かれています。
この作品も、前景・中景・後景に分かれていますが、范寛のような偏ったものではなく、均等に分割されており、空間構成の進歩が見られます。
さらに高遠・平遠・深遠という3つの遠近法「三遠」が、一つの画面で統合されています。
高遠 山頂を見上げてその高さを表す見方
深遠 手前の谷間から遠くの山をのぞきうかがう見方
平遠 近い山から遠い山を眺望する見方
この作品でいうと、
上部中央の山が高遠
左側が平遠
右手前の渓谷が深遠 ですね。
視覚的に複雑で変化にとんだ表現となっています。
この「三遠」を理論化したのが郭煕で、その理論は息子の郭思によって、著書『林泉高致集』(りんせんこうちしゅう)にまとめられています。
◆参考文献
美術検定実行委員会編 『美術検定2級問題集-アートの知見を広げる-』 美術出版社、2019年
美術検定実行委員会編 『続 西洋・日本美術史の基本』 美術出版社、2018年
金子典正編 『アジアの芸術史 造形篇Ⅰ 中国の美術と工芸』 幻冬舎、2013年